国語

新釈走れメロス いつでも青春を感じたい人に

祥伝社サイトから引用

ぱんだりやん

ども、どこかのだれかの役に立ちたいブロガーです。

「青春とは、心の若さである。」これは、アメリカの詩人、サムエル・ウルマンの有名な一文です。

今が青春、過去が青春、これからが青春、人によってさまざまです。

時代や場所などなど、青春を取り巻く環境はいろいろあれど、この森見 登美彦さん作の『新釈走れメロス』を読むと青春を感じます。

いつでも青春を感じたい人に。おすすめのポイント。

■青春とは、京都である。
■青春とは、学園祭である。
■青春とは、恋愛である。

「新釈走れメロス」は、表題作含む、5つの話から成り立っています。
「山月記」「藪の中」「走れメロス」「桜の森の満開の下」「百物語」
「山月記」や「走れメロス」は、国語の教科書に載っていることもありますのでやや身近かも。

原作を読んで知っていると本作もより、楽しめます。

青春とは、京都である。

森見さんの作品は京都を舞台に大学生がドタバタするというものが多いです。なので、京都が青春!といいたいのではありません。

京都が舞台というのはわかってますし、京都を知っているとより楽しめるのですが「京都を知らなくても学生にやさしい架空の街」として読むことができます。

そういい意味では、青春とは、森見さんの書く京都である。と言い換えた方が良いかもしれません。

実際の京都は、学生の街といっても過言ではありません。いたるところに大学があります。かつ、世界に誇る観光地。遊ぶところは無限大。大きな道を少し入ると小さな道沿いにこじゃれた町屋が並ぶ。

唯一無二の街でありながら、どこかの街とも共通点がある。それが京都です。

なので、街の描写や主人公たちの行動を追いかけているとなんとなく自分も経験したことのあるような感覚に陥ります。あれ?これって自分が学生時代に過ごした街かも?と感じつことができます。

青春とは、学園祭である。

学園祭か文化祭かはたまたコンパの類か。人が集まればそこは「祭り」です。青春です。

収められている短編の中で、標題にもなっている「走れメロス」は、この学園祭で繰り広げられるナンセンスなドタバタの集大成です。

甘酸っぱい青春もあれば、制御の効かない青春もある。

森見版の走れメロスは、冒頭が秀逸です。

「芽野史郎(めのしろう)は激怒した。」メロスではありません。

メロスは、友人のために走る話ですが、芽野史郎は友人を置き去りにして逃げまくります。ここが一番の差なのですが個人的にはどっちもどっちと感じます。元ネタの太宰治の『走れメロス』を読んだ人は多いと思います。そのうえで、あえて言いたいのですが「メロスって、変な奴」ですよね?

勝手にまわりの都合を考えず突っ走って、上から目線で対応します。友人のために走りますが、そもそも友人を置いていくって決めたのメロスやんっ!

そう考えると芽野史郎とメロスは同一人物に見えてきます。見えませんか?すいません。

主人公の違いはさておき。青春に祭りはつきものです。準備から当日に至るまで、心おどる出来事の集大成です。学園祭の描写を読んでいると、イメージが膨らんで、自分自身も参加しているような感覚を味わえます。

青春とは、恋愛である。

異論は認めませんっ!5つの短編の中で「藪の中」、「桜の森の満開の下」の2つは男女のお話です。先ほどの「走れメロス」にも一応、男女の恋愛にまつわることが出てくるので実に半分以上が恋愛に関すること。恋愛小説といっても過言ではありません。(過言です。)

こちら二編は、「甘酸っぱい青春」なのですが、「走れ芽野史郎」のような爽快感は無く、文学小説のにおいを感じさせる短編となっています。

元ネタの設定をしっかりと踏襲しているので、重たい元ネタが、現代風にどうアレンジしているのかが読みどころ。登場人物の心理描写は、同じ部分もあり原作を合わせて読むと不思議な感覚に陥ります。

元ネタが現代の話に感じてしまう、そんな錯覚です。

そう考えるといつの時代も男女の恋愛。まあ、男女に限りませんが人間の恋愛に関する事柄は、「青春」に直結する気がします。

まとめます。

読むたびに青春を感じる、森見版「走れメロス 他4編」

青春の喜怒哀楽にあふれています。これから青春の人も、過去に青春があった人もいままさに青春の人もみんなに読んでいただきたい、「青春小説」です。

この記事が少しでも皆さんに『役立つッ!』と言ってもらえるとうれしいです。

ほなね~